複製産物

表現という表現は、どんなに突き放してみても、

包み隠してみても、さらけ出してみても
自分というものから離れることは決して出来ない。
                            
ころころと変わる、社会の理念は当てにならん。
自分の中に理念を持て。
                         
しっかりと心を落ち着けてみると、
変わり続ける自分の中で変わらないものがいくつも顔を出す。
そういうものをしっかりと感じていたいのだ。
                             
そんなことを思いながら、
一ヶ月ほど前から自分のルーツ、日本人のルーツを探っている。
複製され続けている細胞の中にある、
縄文と弥生の記憶をしっかりと感じ取りたいのだ。
                                  
まぁ、カッコつけずに言えば、縄文土器や土偶の写真集を
ひたすら見続け自分との共通点を見つけているだけのことなんだが・・・。
                                     
僕は常々、世の中は複製の複製による複製のための世の中なのでは?と考えていた。
                                      
単に増殖するというより、
複製するために増殖という複製をしていると考えている。
                           
カラオケなんかとってみても、
歌手の歌を、他人が歌うことも複製だ。
そもそも、歌を複製し全国のカラオケ店に配信しているわけだし、
その歌手が歌を作った時も、何かしら、誰かしらの影響を受けているわけだ。
                                   
なぜ複製され続けるのだろう。
              
                          
そして更に不思議なのは、なぜ生物の複製が完璧ではないのかということ。
同じ種族でも、全く同じというものが存在しない。
必ず個性が生まれる。
                            
そういうことが不思議でならない。
で、そんなことを考えていたら、
本屋で武村政春氏の「世界は複製で出来ている 共通性から生まれる多様性」
という本を見つけた。
                                  
自分が考えていることは、大抵もう既に誰かが考えているものだ。
人類の歴史は長いのだ。
どうやって自分なりに表現するかだけだと思った。
                                  
まぁ、そんなことはどうでもいい。
この本がとにかく面白かった。
(ちなみに最近出た本です。)
                           
考え方も文章も面白いし分かりやすい。
ぶ厚くないから気軽に読める。
すごくオススメ。
                  
職場の昼休みに少しずつ読み進めようと思って買ったのだが、
一気に読み切ってしまった。
                           
で、さらに複製思考に興味を持ち、複製についての本を探した。
すると「レプリカ」というタイトルのぶ厚い本を見つけた。
パラパラとページをめくると、読んだことがある文章が。
                         
!んっ。と思って表紙をよく見ると、
同じ著者のものだった。
「世界は複製で出来ている」は「レプリカ」が母体になった複製産物だったのだ。
                                    
「わおっ」と思ってつい買ってしまった。
                                    
「世界は複製で出来ている」の序章にこんなことが書いてあった。
                              
この世が複製社会であるとするならば、
複製の起源を辿っていけば、
たった一つのオリジン(究極的なオリジナル)にたどり着くはずであり、
もしそうなら、
複製を起点として物事を考えていくことで、
私たちのすべての源が明らかになるかもしれない。

 

 

いや〜〜っ。いいね。